歴史

大光寺の歴史

大光寺古文書類

開基(開山)

大光寺は、鎌倉時代の文応元年(1260)に、浄土宗の開祖法然上人より六代孫弟子の空蔵房寛海上人により開基されました。当初の寺名は「大光明寺」で、即成院のあった村(現在の伏見桃山町松平武蔵)にありました。

寛海の大光明寺を拡張、その後禅宗化

文和年中(1352-56)廣義門院西園寺寧子(後伏見天皇の女御)が、南西の地一帯(現在の桃山町泰長老)に新たに伽藍(お寺全体)を拡張します。以後、臨済禅僧の入寺により拡張後の大光明寺は禅刹(禅宗のお寺)となっています。

当寺所蔵 貞成親王(後崇光院)御真筆文書

拡張前からある元寺は「宝厳院」と改名、大光明寺の塔頭に

そして、松平武蔵の地に残った元寺は大光明寺の塔頭となり「宝厳院(ほうごんいん)」と称します。宝厳院はその後、室町時代の一時期には伏見殿(伏見御所)が焼失したために、栄仁親王(伏見宮家初代)やその子貞成親王(後崇光院)により伏見殿の仮御所となりました。

現在の伏見桃山城

大光明寺は指月伏見城築城に伴い移転、「大光明院」に

応仁の乱では、大光明寺も荒廃の時期がありましたが、文禄の頃、豊臣秀吉により同地に指月伏見城が築城され、大光明寺は秀吉や家康ほか諸大名の勧進により、相国寺山内に移されて、「大光明院」と改名し再建されました。この時宝厳院はそのまま伏見に残されています。

移転後の「大光明院」は焼失、明治に再興

移転後に「大光明院」は焼失し、明治時代に相国寺山内の「心華院」が「大光明寺」として再興されています。

当寺所蔵 小堀遠州の手紙(1579~1647年)

中興上人により、「宝厳院」が『大光寺』に

文禄元年(1592)大光明寺の相国寺移転に際して、宝厳院に中興荘蓮社厳譽上人が入寺。本山を浄土宗黒谷金戒光明寺に定め、嘗ての寛海上人の浄土系大光明寺の法統を引き継ぎ、寺名は「大光明寺」から「明」の一字を削って、新たに『大光寺』と改名。山号を『藤澤山(とうたくさん)』としています。

大光寺が伯耆町に移転となる

慶長・元和年中には、大光寺の末寺も増え中本山格となり、徳川家光の伏見城での将軍宣下とその後の伏見城廃城を機に、寛永元年(1624)伏見奉行小堀政一(遠州)により、現在の地の伯耆町(青山伯耆守屋敷跡)を替地として拝領します。翌年(1625)円蓮社頓譽上人代に、旧来の地に塔頭一寺を残し、精舎を現在の地に移転しています。残った松平武蔵にある塔頭はしばらくは『大光寺』のままでしたが、後に宝厳院にちなんで「宝円寺」と改名し、『大光寺』の末寺となっています。

『山城国伏見街衢並近郊図』

(1670年 京都大学図書館所蔵)

大光寺旧地(右)と現在地(左)(図中〇)

2箇所に「浄土 大光寺」と記載

江戸時代の大光寺

江戸時代は境内で縁日や富籤(東山大仏や松尾大社の興行)が行われ、明治時代には勧進の京都相撲の興行なども行われておりました。

『拾遺都名所図会』
天明7年(1787)刊行

伏見義民事件

天明期、大光寺の住持が伏見奉行小堀政方の悪政に悩まされ、伏見義民一揆を喚起する一要因となるような事件がありました(『雨中之鑵子』)。

幕末新選組事件

一方、大光寺を菩提寺とする伏見奉行所の与力方もあり、その中には幕末に新選組の一隊士の凶刃によって絶命された与力もおられます(『新選組覚え書』)。

旧薬師堂

梵鐘

当寺境内の西側ににありました梵鐘は、太平洋戦争時に供出され、鐘楼は戦後破却されました。しかし、その後梵鐘が無事で返却されることとなりましたが、もはや当寺の鐘楼はなく、同じ浄土宗の寺院に寄贈することとなりました。

新本堂建立

旧本堂は、老朽化のため平成元年に全改築しております。現在の当寺の本山は、東山の華頂山にあります浄土宗総本山知恩院であります。

薬師堂の移転

境内の東側にありました知恩院宮御門跡(華頂宮)の旧御殿を拝領し再建されました旧薬師堂は、老朽化のため解体され、仏像や堂宇の装飾彫刻類は本堂に移設され、法親王の尊牌をお祀りしております。